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| 想い出の北京(4) ==== 新僑飯店 ==== |
夜になるとまったく静かで、頭の中に「シーーン」という音が走るような静けさの中で過ごした友誼賓館とは違い、市の中心部に位置する新僑飯店に移ってみると、流石に外の喧騒が部屋の中にも伝わってきた。「あーー、中国の中にいるのだ」と実感した。しかし、夏の朝の市民の生活の始まりは早く、まずはけたたましく鳴りあうバスの警笛に目を醒まされた。また、近くにある病院から流れて来る「東方紅」のメロディに続いて、拡声器で発せられる「何か」がしばらく聞こえてきた。何を言っているのか、拡声器でキンキンと声が割れていたので、当初私の能力ではさっぱりわからなかったが、どうやら特に病人を対象にしての内容ではなかった。(この「東方紅」のメロディにはすっかり耳につき、気がつくと口ずさんでいたりして、その翌年北京で生まれた娘の子守唄にもなってしまった。) そして、新僑飯店での、最初の日の朝は、特にビックリした。午前7時ころ、ドンドンと扉をたたく音に何事かと急いで扉のところに行き、内鍵を引くと、ほぼ同時に扉が大きく開けられ、両手に魔法瓶を下げた服務員がドドーッと室内に入ってきた。そして、前日から置かれていた魔法瓶と交換していったのだ。その間、約数秒か、とにかくすばやかった。有難うと言うゆとりもなければ、文句を言うヒマもなかった。朝寝坊の私は、特に休日くらいゆっくりとしていたいのに、この調子ではかなわないと思い、それからはお湯の減った魔法瓶は夜中のうちに扉の外に出して、朝には扉をノックしないで、新しいものと取り換えておいてもらうようにした。それにしても、その魔法瓶は、形こそレトロであるものの、コルクで口がきっちりと塞がるという点では保温性が良く、北京生活では愛用の品になった。たまに、熱い湯気の圧力でそのコルクの栓がすっ飛ぶこともあった。とにかく、そんな非日常性、オドロキに出くわすのは楽しかった。 観光客など殆どいなかった当時、この新僑飯店の泊り客というのは、外に住む所がないので長期滞在している外国人で占められていた。中国と友好関係にある北朝鮮やソ連(現ロシア)の外交官は、大使館の敷地内に住居も有しており、早くから国交樹立していた国々の外交使節は住居を得ていたが、それ以外の外交使節とアフリカ諸国からの技術修得者などがここに滞在していた。又、日本の貿易商社も何社かがここを住居兼職場としていた。一階には中華のレストランがあり、大小の丸テーブルが置かれていたが、その内の幾つかにはテーブルの中央に日本のお醤油、ソース、梅干、塩昆布、お茶漬けの素等などがあった。最初は食事の度に部屋から持って降りて、食事後にはまた部屋に持って上がっていたのであろうが、いつの間にか置きっ放しになったものと思われた。そして暗黙の内に、各人座るテーブルが決まってしまっていたようだった。それほど、泊り客が固定化していたということだ。そして、中国語のよくできる駐在員たちは、食堂の「同志」(あの頃は、中国の人に呼びかける時は「服務員」でも「小姐」でもなく、何故か「同志」)ともすっかり顔なじみになって、自分好みの味つけにしてもらったり、調理の仕方に注文をつけたりもしていたようだった。いくら美味しい中華料理でも毎日・毎食では数日でメニューも食べ尽くし、たまには白いご飯だけをもらってお茶漬けでもしたくなったのでしょう。このレストランには、他所に住むようになってからもよく通った。当時三里屯にあった職場から昼休みにここまで戻って、昼食をとり、少々の休息をとってからまた職場に戻れたのだから、昨今の北京の道路交通事情からみると、信じられないような時代だった。そして、新僑飯店の、最上階には西洋料理が食べられるレストランがあり、中華料理に飽きるとたまには行ったものの、メニューの数も少なく、又、どんなものが出てくるか想像もできず、果たして行く度に後悔した。やはり中国では中華。 因みに、宿泊代は一泊13元だったと思うが、夫は18元だったと(当時は1元=150〜170円)。 |