心連心Essay


想い出の北京(6) ==== ホテルから公寓へ =====

想い出の北京

1974年の春、長安街の友諠商店の道を隔てた東側に新しく建てられた外国人のためのアパート(斉家園公寓)が完成し、私たちの職場にも何フラットかが配分になった。その時点での私は出産を控えていたので、優先的に入居できるよう配慮を受けた。

嬉しくなって下見に行くと、なんと鍵がない。洗面所に内鍵がないのはまだしも、公共の廊下に繋がる入り口にも鍵がなかった。鍵など必要がないほどに北京の生活が安全だったのは確かであったが、やはり落ち着かない。実際、良かれ悪しかれ、それとない監視の眼の中にあったので、盗難をはじめとして事件は起こりにくい社会だった。中国人が少しでも見慣れない外国物を持っているとすぐに怪しまれるので、中国人による盗難は考えにくいことだった。しかし、外国人同士の中はどうかというと、これは保障の限りではなかった。(例えば、一夫多妻の国から妻子十数人を連れてきているという家庭では、子供にまで食べ物が行き届かないのか、教育も躾もなされていないのか、子供によるちょっとした事件はよく耳にしていた)。 すぐに鍵を取り付けてもらうことになった。

また、建物はできても中は空っぽなので、必要最小限の家具は入居前に買い揃えなくてはならない。ホテルで待たされていた外国人が一挙に入ることになったので、今度は家具が不足するという状況になった。一週間もするとベッドも二ヶ月待ちなどとなり、買えなかった人はまたしばらくホテルで待つか、床に寝ることになった。私は運よく、ベッドと食卓セットとソファセットを購入できて、鍵の設置完了と共に入居した。
ところが、高い建物がなかった時代で、幸いにも7階の部屋が宛がわれたので、余り問題はなかったのだが、またしても予期しなかったことが起きた。カーテンを作ろうとしたが、「布票」が足らず、必要量の布地が買えなかった。当時はお金があっても配給される切符「布票」の分量の範囲内でしか布地が購入できなかった。天井が高く、布地も相当必要だったので、同僚と切符を譲り合って、順番にカーテンを取り付けるということにした。人によっては、とりあえず部屋の半分にカーテンを取り付けたが、来月同じ布がなかったらどうしようかと半ば真剣な笑い話になったりしていた。布も、そもそも品数も種類も少なく、その中で日本人好みの柄となると尚のこと限りがあり、うちでカーテンにしていた布が同僚のお宅では子供さんのワンピースになっていたりして、笑えることが一杯あった。


糧票
配給切符には、外国人にも他に「糧票」というのも配られ、外で麺類を買うときや食べるときに必要だった。中国人にはこの他に「油票」とか、冬には石炭(炭団)を買うときの切符などもあったようだった。貴重品だったのだ。毎年、春節や国慶節には、油などの特別配給があるらしく、前日には、配る人、受け取る人、みんな浮き浮きしていた。貰ってきて嬉しそうにしている中国人に、「こぼさないように持って帰らないとね〜」と声をかける私も嬉しかった。私たち外国人は、そういうものはお金さえあれば買えた。あのような浮き浮きした気持ちを味わうことなど、今の時代には少なくなってきている。物がなく、日ごろ節約したり辛抱しているからこそ味わえる素朴な感動だったのだろうなあ、とつくづく思う。



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