心連心Essay


想い出の北京(7) ====「外賓」ということ(その1) ====

想い出の北京(7)

十ヶ月近くのホテル生活期間中は、自炊はできず、外食ばかりだった。朝はホテルの食堂で飽きもせず同じものを注文して食べていた。その内、食堂の同志(服務員)は私の顔を見ると注文もとらずにお定まりのものを持ってくるようになった。時間の節約になって助かったものの、たまには「今朝はこれじゃない」とつき返してみたらどんな顔をするだろうなどと想像したものの実行はしなかった。食べ物を無駄にはできないという意識のほうが強かったから。お昼も、今のように自由に市中の店に入ることはできなかったので、国際倶楽部かどこかのホテルの食堂で済ませては、午後の勤務に戻った。思えば、青椒肉?、肉抹粉?、家常豆腐、清炒豆芽とかを食べ続けられたのは、やはり中華料理は美味しくて飽きないものなのか、油を怖れぬ若さがあったからなのか、それしかないという状況への諦めがあったのか。とにかく今では信じられないことだった。

レストランに限らず、当時外国人が自由に出入りできる店は限られていた。王府井を歩いていてもそうだった。外国人が入ってもよい店には、「外国人服務×△○」だったか「外賓×○△」だったかうろ覚えだが、特別な標札があがっていた。それを無視して、或いは気づかずに標札のない店に入ろうとすると、どこからともなく人が近寄ってきて、入るのを何気なく制止されたり、店の中から服務員が手真似で「入るな」というようなジェスチャーをするので入れなかった。中国の一般人民が出入りするところに行ってみたいという好奇心は一杯だった。だから、休日に街を歩く場合には、できるだけ質素ないでたちで、もちろん口紅すらしないで出かけるのだが、道往く人々の視線をすぐに感じるようになった。そして「ひそひそ、、 華僑だろ、、ヒソヒソ」というのがよく耳に入ってきた。当時、北京の女性の髪型は年令に関係なく短い断髪(もちろんパーマっ気はなし)か、長ければきちんと三つ編みをしているかのどちらかで、洋服は少なくとも一番外側に着ているものは濃いグレーか紺色の上着とズボン(スカートは季節を問わず皆無)だった。それらに加えて、私が履いている靴、持っている手提げなど、ちょっとしたところで、地元民(台湾か香港かという可能性は残しつつ)ではないと簡単にわかられてしまった。

※写真一枚目「王府井で中国の子と」
※写真二枚目「国慶節の夜 特別に最大限に点灯された長安街」

想い出の北京(7)タクシーや乗用車ばかり利用せず、「公共汽車」(バス)にも乗ってみないと現地の生活に溶け込んで生活したとは言えないと思い、奮起してバスに乗ってみたことがあった。ところが、そこで私は大きな後悔をする羽目に陥り、それ以後は一度も乗らなかった。それは、私がバスに乗り込むや、車掌だったかが「外賓、外賓」と大声で言うと、乗客の一人がそれを受けて「外賓、外賓」と繰り返して言い、座っていた中国人乗客が立ち上がって席を譲ってくれたのだ。老人や非健常者に対して自然と席を譲るというのではなく、明らかに外国人が乗ってきたことで、特別扱いしなくてはならないという一種の強要があってのことだと感じた。私は私で、若かったし、立っていることなど苦にもならなかったのに、座らざるを得なくなった。なんともバツが悪かった。その時に私が思ったことは、この人たちにとっては、仕事で疲れて、長い間バスを待って、先を争って乗り込み、やっと座れた席だったのではなかったのか、私にはタクシーに乗るお金があるのに・・・。真冬の極寒の中でも、リヤカーに病人を寝かせて運んでいる人がいた光景なども思い出され、真剣に毎日を活きている人たちに対して、私は自分の好奇心を満たすためだけに行動しているように思え、激しい自責の念にかられたのだった。





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