心連心Essay


想い出の北京(9) === 唐山地震 (北戴河にて) ===

想い出の北京1976年夏、当時外国人にも開放されていた北戴河という避暑地で夏季休暇を過ごすため家族で出かけた。北戴河は河北省秦皇島市の渤海湾に面した海浜リゾート地で、清朝末期に開かれて以来、政府高官や外国人の夏の保養地になっていた。新中国になっても毛沢東はじめ指導者たちがここで夏を過ごし、また政治的重要会議を開いたりしていたところだ。北戴河駅で汽車を降り、車で宿泊施設のあるところまで移動する途中、ペンキで壁に大きく落書きのある家屋が目に入った。一時失脚中の指導者のことを中傷するものだった。失脚する前は毎夏その家屋で夏を過ごしていたのだなと想像された。

目的地に着いてみると、白い低層の建物が階段状になった石畳の上に立ち並ぶ光景は、当時の北京の街並みからはおよそ想像できないもので、いつか映画でみたヨーロッパのリゾート地のようだと感激した。

割り当てられた部屋で一息つき、万里の長城の最東端である山海関を見学に出かけ、夕方になると同僚ファミリーたちと共に海風を受けながら、屋外にあるテーブルを囲んでの洒落た食事を楽しんだ。従業員の中に北京の国際倶楽部の職員の顔を見かけた。夏の間は、多くの外国人はバカンスで帰国したり、北戴河に出かけたりして北京の外国人人口は激減するので、外国人の対応に慣れている人手を上手に遣り繰りしているのだろうと思った。

想い出の北京終日海辺でゆったりとして、素敵な命の洗濯ができる予定だったのだが、二日目の早朝、グラッと揺れて目が覚めた。珍しい。地震だ。中国に来て以来初めてだった。結構揺れたが、泊まっている部屋は一階だからすぐに外に出られるし・・、と眠気をかばうようにして布団の中で揺れが収まるのを待っていた。後から考えるとなんと暢気なことをしていたのかと思ったが、部屋にテレビがあるわけではなし、あったとしても今のように速報が流れるわけではなかった時代である。震源地を始めとして一切の情報がない中、地震に慣れている我々日本人は大抵は落ち着いていたが、地震を経験したことがない国から来ている人達はそうではなかった。皆早くから戸外に出ていたようだった。そして、日ごろは一跨ぎの小さな溝にも足をとられて転んだり、やたらと動き回っているかと思うと樹木の根元に座り込んでしまったり、パニック状態とはこういうものかと思った。その後小さな余震を何度か感じたが、その内収まるものとまだまだ暢気に構えていた。 しかし、ランチ時には結構大きな余震があり、そのような大きな余震は余り経験したことがなく、流石の私たち日本人も緊張し始めた。現代社会のように、情報過多という中で必要・重要・正しい情報を選別するのもたいへんだが、情報がないということは、拠って立つものは自分が感じたこと、見えること、聞こえることのみということで、そのような情報枯渇状態の時に何かが入ってきたらすぐに真に受けてしまうかもしれない、タチの悪いデマなどが流れたら怖いことになるなどと思いながらも人の話に耳を欹てないではいられなかった。

※写真 北戴河にて


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