何の情報もない不安の中で誰もが苛立ちを隠せなくなってきた頃、全員荷物をまとめてバスに乗るようにという指示が伝わってきた。津波の心配もあるので、いつでも海岸から離れられるようにという配慮からだろうと想像した。しかし、バスに乗り込んだものの、運転手も来なければ、一向に走り出す気配はなかった。今のように携帯電話などなかったので何がなんだか、全体状況がさっぱりわからず、夫は宿泊施設の事務所に入り込んで情報収集に専念し、私はまもなく二歳になる娘を抱いて、おとなしくバスの座席に座り込んでいた。
暑い夏の日、クーラーのないバスの中は温室状態だった。そこに夕方近くになると大雨が降り始めた。弱り目に祟り目というか、どうして地震の後には大雨が降りやすいのだろうか。その為に窓を閉めきったバスの中は丸で蒸し風呂同然となった。もともと暑がりの娘はまもなくぐずって泣き始めた。傍らには東欧出身らしい老婦人などが、この未体験の出来事で心身ともに衰弱し、見るからにぐったりとして、狭い座席に沈み込むように座っていた。その姿を見て、私はいたたまれなくなり、娘を抱いて車外に出、すぐ近くの建物の軒下にある台に腰掛けた。ひとたび大きな津波でも来れば、バスに乗っていてもそこに腰掛けていても余り変わりはないだろうと居直り、出発寸前にバスに飛び乗ればよいと考えた。(先ごろ起きたインド洋の津波が瞬く間に人家を呑み込んでいく映像を見たときには、知らぬが仏であった当時のことを思い返して、津波の脅威に身震いがした)。
車内の蒸し暑さから開放された娘は泣き疲れもあってか、まもなくスヤスヤと寝入ってしまった。私はホッとしながら、なぜか終戦時の引揚げの状況を空想していた。三十年前、暑さで伝染病などが蔓延する夏、そして持てる限りの衣服を身に着けて凍てた大地を歩いた極寒の季節に、この大陸から日本に引揚げて行った人たちがいた。その中にはこんな幼な子を抱いた母親もたくさんいたに違いない。私には今、子供をあやすオモチャも食べ物もあるが、あの時の母親の気持ちはどんなだったろうかと思うと胸が詰まった。
どういうことになったのか、よく知らされないままに陽も落ちて薄暗くなりかけた頃、やっとバスは出発することになった。道なき道を突き進んでいることは、巨木の枝が絶えず窓ガラスを撫でていたことから想像された。道は雨水で川のようになっており、途中でバスが立ち往生するのではないかと心配するような深さのところもあった。周囲が闇に沈んでいく中、バスのヘッドライトだけが頼りだった。いったい、何処に向かっているのかも一切知らされないままだった。成るようになる、成るようにしかならない、俎板の上の鯉、どうなったって自分一人ではない、、、、、、。
後で知ったことだが、軍用基地から特別機に乗って北京に飛んで帰ったらしい。「らしい」という表現も妙だが、とにかく何のアナウンスもないし、雨の降りしきる暗闇の中、どこからどこを走っているのか知りようもなかったし、気がつけば機内であり、北京飛行場だった、という感じだったのだ。多数の外国人を巻き添えにしているこの非常事態に当たって、どのように対処すべきか、中国側としては、関係当局への打診、飛行機の手配などに時間がかかったのだろう、否、軍用基地を見せたくないから暗くなりかけるまで動かなかったのかもしれない。
※写真 当時北京で使用されていた切手