心連心Essay


想い出の北京(11) ==== 唐山地震(その後の北京)===

想い出の北京 住まいである斉家園公寓に戻ったときはもう日付が変わるころだった。 翌日、やっと唐山を震源地とするとてつもない大地震が発生したこと、唐山市に出張していた日本人商社マンにも死者が出たということなどが伝わってきた。その当時伝え聞いた話では、咄嗟にベッドの下にもぐった人は、上から天井(すぐ上の階の床)がそのまま落下してきたために圧死し、壁にへばりついた人は負傷はしたものの命は助かったということだった。重い木材でできている中国の古い建物の分厚い木の床と天井、重い木製の家具などを想像すると頷けることだった。地震が起きたら頑丈なテーブルなどの下にもぐるというのが常識だったが、落ちてくるものがそれを破壊するほどの重量である場合はダメなのは道理だ。その前年には、遼寧省海城県の地震発生が的確に予知され、死者の数を最小限に食い止められたと聞いていたのに、今回の大地震の兆候は掴めなかったのかと地震予知の難しさを感じた。同規模のものが北京や上海で発生していたら、被害は更に膨大なものになっていたに違いないとも思った。

 北京も随分揺れたというので、建物の中を見て回ったが、階段の踊り場の壁などにうっすらと亀裂が入っている箇所は確認できたものの、崩れたり、修理するほどの被害はなく、室内のものが倒れた様子もなかった。

 おもてに出てみると、余震を警戒する当局から家屋の中にいてはならないという通達が出たらしく、市民は外に出て生活していた。空き家になる家屋は施錠が万全であったわけではなく、あとで聞いた話では、「他人の家に入り込んで盗みをしたら、それが鉛筆一本でも極刑に処す」というお触書が出ていたそうだ。当時は珍しかった高層マンションに入っていた私たち外国人も建物内に立ち入ることは禁止され、大使館に身の回りのものを携えて避難することになった。緊急用のお米や缶詰などで食事をし、夜は一階の接客室や多目的スペースに居場所を割り当てられて雑魚寝をした。集団生活開始当初、子供たちは修学旅行にでも来ているかのように楽しそうにはしゃぎ回っていた。しかし、屋内立入り禁止令がいつ解除になるのか、さっぱり目処が立たない状態で、そのような生活を続けるには食材も不足してくる可能性があった。子供たちの精神衛生上も良くなかろうということで、丁度学校も夏休みの時期であるのを幸いに、とりあえず女・子供は一旦帰国するのがよかろうということになった。私は職員であり、しかも邦人保護に当たる領事部に所属していたので帰国するには心理的に抵抗があったが、小さな娘を連れていては足手まといになって皆の迷惑に繋がる事とを天秤にかけて、居残る夫が二人分働くことを期待して帰国組に入った。

 大きな余震はもうなかろうという判断のもと、八月下旬に北京に戻った。建物への立入り禁止は解除され、元の公寓で生活できることになっていた。しかし、市民はまだ屋外での生活を続けていた。月初めに北京を離れるときは、地べたに敷物を敷き、持ち出した椅子に腰掛けている姿が多かったのだが、その頃にはベッドを部屋から持ち出して、それを拠点に生活しているというタイプが目立った。それは夏場だから可能であったことで、北京も秋が深まるにつれて朝夕はひんやりとし始めた。すると、不謹慎な言い方だが、興味深い光景が現れた。最初のうちは、持ち出したベッドの周囲を囲い、人の目と風を防いでいたのだろうが、やがてその外側に土やレンガを盛り上げて囲いとし、更には屋根までつけて、中には入り口に表札が掲げられているものまであった。解除になったのだからもう元の家屋に入って生活すればいいのにと思ったが、各人の手作りで、それぞれ個性的なものに出来上がっていた独立家屋。狭いながらも一国一城の主、愛着も沸いてきていたのだろうか、年末相当寒くなり、年が明けてからもそこかしこに残っていた。一方で、気密性に富んだ仮設のテントは、風は遮られていたのだろうが、寒さが厳しくなった頃に中で練炭で暖をとっていた家族が一酸化炭素中毒事故を起こしたという悲しいニュースが伝わってきたこともあった。
娘は、日本に一時避難していた期間に母親の私と一緒だったことが習慣になったせいか、北京に戻ってからは私が出勤することに敏感な反応を示すようになった。夜中になんだかお腹が苦しいと感じて目を覚ますと、隣に寝ている娘の脚が載っていた。最初は単に寝相が悪くなったと思っていたが、どうやら私が立ち上がるとわかるようにしているのかもしれないと思うようになった。私自身も、身の回りのちょっとしたものを詰めたスーツケースを扉の入り口のところに用意し、車の中にも若干の衣類などを置いていた。又、いつでも外に飛び出せるようにしばらくは普段着を着たまま寝ていた。
 直接にひどい被害を受けたわけではなかったのに、海を見たら北戴河、夏が来れば避難したことを思い出し、すっかり忘れて生活できるようになったのは随分の歳月が経ってからだった。しかし、その後の三十数年間には世界各地で様々な自然災害があり、その度にまた自然とその時の記憶がよみがえっている。直接被害に遭い、怖い思いをした人々の心中は本当に計り知れない。





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