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心連心 |
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本木監督が中国に興味を持ったきっかけは何だったのでしょうか?
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本木 |
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少年時代、当時NHKで放送されていたシルクロードのドキュメンタリーシリーズを見て強い衝撃を受けました。文化人類学的な興味と言えるでしょうか、日本の近くにこれほどまでに壮大なスケールで、文化的にも違う国があるものかと大変興味を持ちまして、それをきっかけに中国に対する憧れが心の中に植えつけられたように感じます。
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心連心 |
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学生時代、中国へ留学もされていたそうですね。
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本木 |
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大学生の時に偶然見かけたポスターで、日中留学協会という団体が留学生を募り中国へ派遣していることを知りました。早速僕もその事業に応募し、春休みを利用して北京語言学院という学校に留学しました。80年代のことですから、まだ中国へ留学する学生は珍しく、グループの中で僕が最年少でした。北京に降り立った時は凄く寒かったことを覚えていますが、とにかく見るもの聞くもの食べるもの全てが新鮮だったものですから、楽しく生き生きと生活していましたよ。 |
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心連心 |
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まさに日中交流のパイオニア的な活動をなさっていたわけですね!
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本木 |
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そうかもしれませんね(笑)中国人留学生が日本へ到着する時には車で彼らを成田空港に迎えに行き、宿舎まで送り届けるといったアルバイトもしていたのですよ。それ以外にも、今はもう無いと思いますが「パンダクラブ」(※1)という日中の文通事業や、中国へ日本語教材を送るボランティア(※2)にも関わっていました。これらの活動を通して、益々中国への興味が植えつけられていったのです。
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心連心 |
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日中交流にどっぷりとつかっていらっしゃった学生時代から、その後どのような経緯で映画監督になられたのでしょうか?
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本木 |
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これだけ中国に関わっていましたので、はじめ自分は将来中国やアジアに関わる仕事をしたいと思っていました。実は大学四年生の段階で外資系の銀行に勤めることが決まっていたのです。しかし仕事の研修を受けてみて、それが自分の思い描く仕事像とかけ離れていることに気付きまして・・・自分はやはり何かを創造し、それを世に問うて食べていくんだという思いが強くなったのです。
とは言え、そう思い立った時期が遅かったものですから、それから就職試験を受けることが出来たのは当時斜陽産業だった映画業界くらいでした。そのような経緯を経て、たまたま松竹という映画会社に採用され、助監督になったのです。その時の面接試験ではあの山田洋次監督や、野村芳太郎監督が選んでくれていたのですが、僕は受からなくてもサインくらいは貰って帰ろうなんて思っていました(笑)
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心連心 |
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突然映画業界に飛びこまれて、葛藤や苦労されたことはなかったのでしょうか?
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本木 |
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僕はそれまで自主映画を撮った経験もない「素人(しろうと)」でしたが、何も知らなかったことが幸いして、過酷な映画の現場も新鮮に感じられました。体力的に相当厳しい仕事でしたが、いつか自分が監督になる夢を持ちながら頑張っていました。
その当時の松竹では、新人はまず始めにオリジナルシナリオを提出させられたのですが、僕が書いたのは「となりのアジア人」という作品で、日本の地方公務員と中国人女性の悲恋を描いたストーリーでした。これからの時代は日本人も外国人とうまく付き合っていかなくてはとの思いで書きあげたもので、映画化はされていませんが、僕にとっての処女作シナリオになりました。その後助監督を7年務め、アメリカ研修、2年間のプロデューサー経験を経て、10年目でようやく監督として作品を作る機会を得ました。
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心連心 |
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初監督作品となった日中合作映画「てなもんや商社」ですが、その企画は本木監督ご自身で選ばれたのですか?
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本木 |
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そうですね。作品のテーマを決めるにあたって、果たして自分は何が一番好きなのか自問自答しまして、やはり自分は中国を舞台にしたものだろうなと思ったのです。
「てなもんや商社」は日中貿易に奮闘する主人公を描いたコメディ映画ですが、当時社内ではなかなか評価を得られず、「この映画は社内インディーズだ」と揶揄されました。しかし僕は初監督作品では、「本木克英は何が好きで、何が得意なのか」を伝える必要があるし、そのような”監督としての意思”をどうしても表現したかったものですから、それまで一緒に仕事をした仲間2,3人で企画から出資集めまで奔走しました。とにかくそれを突破しないと二度と映画監督にはなれないという覚悟で臨んだ作品です。
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心連心 |
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中国とのビジネス文化の違いに翻弄されていた主人公が、最後中国人青年を見送るシーンでは、何ともいえない愛おしさが伝わってきます。
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本木 |
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私は映画というのはあくまで人間の生きざまを描くものだと考えています。「てなもんや商社」で出てくる日中の文化的差異は背景でしかなく、日本人と中国人の間に恋ともいえず愛とも言えないような友情が芽生えてくる瞬間を捉えたかったのです。
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心連心 |
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その中国人青年が主人公に「夢はなんですか?」と問うシーンがありますが、そこにも大切なメッセージが込められている気がします。
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本木 |
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当時、中国の人たちは皆よく夢を語っていたんですよ。いっぽう日本人は、いい会社に就職して安定したいという気持ちが強かったと思うのですが、中国人の場合は大きな組織に所属することが目標ではなくて、小さくても「自分のお店を持ちたい」と答える人が多かった。映画の中では「夢は何ですか?」と聞かれた主人公が「今度会う時までに考えておく」と答えますが、これはつまり、夢なんて考えたこともなかったからなんですね。この映画を通して日本人の働く人たちがあまり意識せず、考えることも少なくなった「夢」というものを気付かせたかったのです。
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心連心 |
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ぜひまた「てなもんや商社」のような作品を作っていただきたいです。今後日中に関する映画を撮りたいと思われますか?
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本木 |
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実は2年ほど前に、日中合作映画を企画していたのですよ。1つは、中国の世界遺産の街を舞台にしたサラリーマンコメディで、もう1つは「杜子春伝」をもとにした話でした。それらを上海万博に合わせて作ろうとしたのですが、出資の問題で残念ながらその時は実現しませんでした。ぜひまたチャンスがあればアジアで映画を作りたいと思っています。
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心連心 |
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最後に心連心をご覧になっている高校生達にメッセージをお願いします。
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本木 |
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そうですね、僕はドキュメンタリー番組を見て中国に憧れを持ち、それが今でも仕事に反映されています。学生時代に強く感じたものは生涯に影響すると思いますから、積極的にいろいろな活動に身を投じて欲しいですね。特に日本は島国なので物事に対して非常に単一的なイメージを持ってしまいがちです。海を越えて自分の国以外の人とコミュニケーションをとってみるというのは非常に大切なことだと思います。
マスコミで知る日中の政治や経済、文化の関係はとかく誤解を生むものがありますが、実際に会って話してみると氷解することが多いものです。新たな友好関係を築くうえでも、日中の新しい世代の行動力に多いに期待しています。 |
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注釈
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| ※1 |
日中交流事業の先駆けと呼ばれる日中青年交流センターが1981年に設立した日中間の文通事業。この事業を通して交流した人々の数は3万組以上にも上る。
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| ※2 |
中国の日本語学習者を援助するために、1979年に日中青年交流センターにより組織され、中国全土の約1500の大学、中学、工場等に日本語教材を寄贈していた。 |
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