私の祖父は医者でした。この出来事は私が生まれるだいぶ前のことで、当時医者は往診といって、患者の家を訪問して診察するということが一般的でした。私の祖父もその日はある患者さんを往診する日でした。診察が思ったより時間がかかってしまい、気づくと夜遅くなってしまい、帰りの電車もなくなってしまったため、どこかで1泊することにしました。
ところがその日に限って全く宿が見つかりません。何軒かで断られた後、やっとたどり着いたのが一軒の古い旅館でした。その旅館の女将さんも初めは部屋が一杯であることを理由に断っていましたが、食堂でもいいから泊めてほしいと祖父に頼みこまれたので、「では一部屋空いているのでご案内します…」と言われ、その部屋に案内されました。
最後の一部屋ということで、さしずめひどい部屋だと思っていると、意外といい部屋でした。ちょうど中庭にも面しており、広さも十分あったようです。
夜が遅かったこともあり、だいぶ疲れていたこともあり、すぐに着替えると中庭に面した窓のカーテンを閉めて床につきました。
どれくらい寝たでしょうか。なにか異様な気配がしたので目がさめました。
頭を少し起こすとまず旅館の中庭の景色が目に飛び込んできました。しばらくはボーっと中庭を見ていたのですが、ふとおかしいことに気づきました。カーテンを閉めて寝たはずが、開いているために庭が見えていたのです。
中庭の真中には池があったのですが、そのほとりに女性が一人立っています。真っ白い服を着た女性で、髪の毛が鮮やかなほど黒く、また長く腰のあたりまで伸びています。その女性は立っている場所から祖父が寝ている部屋の中をじっと見ています。薄気味悪くなったため、カーテンを閉めに行こうと立とうとすると、体が全く動きません。
一瞬の出来事でした。いつのまにか女性が外ではなく部屋の中に立っています。祖父は恐怖のあまり声をあげようとしましたが、全く声もでません。体も金縛りにあって全く動きません。ゆっくりとその女性はベッドまで近づいてくると、祖父の両肩に手をかけ、ゆっくりと顔を祖父の顔に近づけてきます。そこではっきりと女性の顔が見えたわけですが、とても青ざめた顔だったみたいです。強烈な恨みがこもった目でじっと祖父の顔を見ています。
更に女の顔が近づきます。鼻と鼻とが触れ合うくらいまでに。それだけ近くても女はじっと両目で祖父の顔を覗き込んできます。
どれくらい時間が経ったかわかりません。次の瞬間、ふっと体が軽くなりました。部屋の中には女はもういませんでした。祖父は疲れがどっと出て、そのまま寝てしまったそうです。
翌朝、食堂で朝食をとっていると、旅館の女将が話し掛けてきました。何か奥歯に物の詰まったような言い方で、話をどう切り出せばいいのかわからなかったみたいですが、ついに「昨晩、お部屋でなにかございませんでしたか?」と祖父に聞きました。祖父は医者でもあったせいかそれまで霊体験というものを一切信じていませんでした。この時もそういう日頃の習慣から「別に何も…。」と答えていましたが、あまりにも女将がしつこかったので、「実は…」と昨夜の出来事を話しました。
そうすると女将は薄気味悪く笑ったあと、「やっぱり…」とうなずきながら次のような出来事を祖父に話しました。
以前その旅館にある女性が泊まっていました。その女性はどうやらある男性と恋愛関係にあったのですが、裏切られてしまったらしく、生きる気力も失ったままこの宿に泊まっていたのです。その女性はその部屋で自殺しました。祖父が泊まっていた部屋が正にその部屋だったようです。
その女性の怨念は消えがたく、その部屋に泊まりにくるお客があると必ず現れて、そのお客が自分を裏切った男性であるかどうか確認しにくるみたいです。
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