この原稿を書いているのはお正月だし、皆さんがお読みになっているのは春節のころだろうから、爆竹の話を書いてみたい。いつもお世話になっている北京のPさんが、ご自分のサイトで爆竹のことを書いておられたのを読んで、急に思いついた。
さて、歴史を扱う者にとって一番大切なのは、資料、それもなるべく同時代の資料で、古文書はその代表格だが、中国には古文書はほとんど残されていない。例えば、宋王朝は十世紀半ばから十三世紀半ばまで約三百年続いた王朝だが、現存する宋王朝時代の古文書は、百点をかろうじて超えるくらいしか確認されていない。日本だと、平安時代の後半から鎌倉時代にかけての時期にあたるが、相当な点数の古文書が残されている日本と比べると、けた違いに少ない。敦煌石窟から発見された古文書は例外中の例外だ。だからこそ、貴重な資料として重んじられる。資料としての古文書が残されていないとことは、他の地域と比べて、中国史研究の大きな特徴となっている。
最近では、潘家園あたりにも古文書が出てはくるようだが、量も多くないし、単なる受け取りや、土地売買の文書でも、値段は他の骨董と比べると決して安くない。それでも、熱心な収集家がいて、北京城内の不動産売買文書ばかり集めた図録も出版されている。しかし、それを見ても、古くてもせいぜい清朝の乾隆時代くらいだから、十八世紀の半ば、日本で言えば、江戸時代も後半にあたる。その時代の古文書なら日本では、いくらでもあるといっても過言ではない。江戸時代の終わりころの借金の証文や受け取りなら、紙代とまでは言わないが、本当に安くで、いくらでも手に入る。
現在の中国で日々体験されているように、役所で作成、消費される文書の数は莫大だったことは、各時代の法令の規定を読めば推測できる。だから、もともと中国に古文書が無かったわけではない。
では、古文書はなぜ無くなったのか。もちろん、政権の交代に伴う戦乱が何度もあったし、最近では、土地解放の時に、地主の権利のシンボルである証文が抹殺されたということもある。しかし、それ以外にも色々な理由があるようだ。
昔から役所の故紙は売り出されて再利用されることになっていて、宋代にはそれが役人達の宴会の費用になったという話もある。また、故紙の寸法を切り揃えて、裏に本を印刷することも多かった。こうした本を「公牘本」というが、今日では、逆に本を解体してその裏の古文書を復元したりすることもある。
だが本になった場合は、裏表は別にして文書は残る。文書が「消滅」してしまった最大の理由は別の所にあるという説がある。それが、爆竹と紙銭だというのだ。爆竹の材料となっている紙には、役所や個人の文書の故紙が使われたし、紙銭も、一度使われた紙を漉き返して作った紙が材料だったので、公私の文書はまさに「消滅」してしまったのだという。
最近の北京市内では、爆竹が禁止されていて、物足りない人は郊外へ「爆竹ツアー」に出かけるという話も聞いたことがあるが、たしかに台湾に行くと、昨今でも祝儀不祝儀を問わず爆竹が使われているから、たえずドンパチいう音がどこからか聞こえてくる。あるいは、寺や廟で燃やされる紙銭の煙が余りにひどくて、周辺の環境に悪影響を与えるから、環境規制で、「無煙化廟」を宣言する所もでてきているという。
そんなことを考えると、あの巨大な官僚制国家から排出されて行ったはずの文書が、それこそ煙となったとしても、不思議ではない。
図版は、乾隆二二年(一七五七)の台湾の土地売買文書。
森田憲司 一九五〇年、大阪生まれ。
現在、奈良大学史学科教授。中国近世の社会・文化を専攻する。
趣味は、書物・地図をはじめとする中国にかかわるもろもろの収集。