中国を見る、読む、集める


わたしの北京

中国を見る、読む、集める 根箭芳紀という人がいた。九八年の二月に大阪で亡くなったが、長く日中間の経済交流にかかわり、最後の十年あまりは、コマースクリエイトという会社の社長として、北京で暮らしていた。コンサルト業をはじめとする、氏の北京での仕事については、晶文社から出版されている『在外日本人』という本の中に、「北京の便利屋」というタイトルで紹介されている。ここでは、根箭さんの残した別の仕事について紹介したい。


  根箭さんが、もっとも力を入れていた仕事ではないかと、私が思うのが、「北京かわら版」の発行だった。ご存知の方も多いと思うが、北京で発行の日本人を対象としたフリーペーパーとして、本誌の先行誌と言える。根箭さんの死後も刊行されていた「かわら版」は、残念ながら昨年夏に休刊となったが、このコラムも、もとは「かわら版」に連載させていただいていた。

根箭さんは、つねに、中国とはなにか、中国人とはなにかを論じ、中国と日本の関係、北京にいる日本人が、それに対していかなる役割をはたすべきなのか、といった問題を追求し続けていた。それは、たんに現状を論じるだけではなく、過去の歴史にさかのぼって論じる姿勢で貫かれていた。そうした根箭さんの論説が、「かわら版」の看板だった。

そして、根箭さんの最後の仕事の一つになったのが、「わたしの北京」という企画だった。これは、北京に住んだ、あるいは北京に旅した人々に、それぞれの切り口から北京について書いてもらって一冊の本にし、日本人と北京のかかわりの記録とともに、ちょっとひねった北京ガイドにも使えるようにしようというものだった。根箭さんとはなにかにつけての名コンビだった、JCB北京事務所長(当時)の櫻井さんがサポートして、企画は進んでいった。

「燕迷」という言葉がある。北京のことを書いた随筆は、日本でも昔から多い。しかし、学者やジャーナリストなどの特定の人々のものがほとんどだった。この「わたしの北京」には、中国人を含めた北京在留の多方面の人たちの文章が集まっていて、それが一つの特徴となっている。また、北京に住む中国人によって書かれたものもある。

取りあげられたテーマの一部を並べてみても、北京での日本料理店の苦労、すべてが不自由だったころの駐在員の日々、三里屯やカラオケの歴史、かつて北京の城壁を取巻いて走っていた環状鉄道、北京の金魚や柳絮、さらには王府井の井戸など、さまざまな北京への関心や思いが綴られている。もちろん、明清時代や、民国時代などの過去の北京について書かれたものも含まれているが、今、(といっても八十年代以降だが、)の北京に暮らしたり、関わりを持った日本人の記録が少なくない。
こうして集められた原稿をベースにした連載が、アジア専門の月刊誌「アジア遊学」(勉誠出版)で、「わたしの北京」のタイトルで、今年の四月号からはじまった。そして、六月号では「北京ー変わりゆく古都」というタイトルの特集が組まれて、十篇の文章が一挙に掲載される。このトコトコが出る頃には、特集号も書店の店頭に並んでいるだろう。根箭さんの、北京と、そこに住む日本人たちへの思いは、世に出ることができた。

根箭さんも、櫻井さんも、北京の在留邦人社会では有名な方だったので、本誌の読者にもご存知の方が少なくないだろうが、根箭さんが亡くなって四年以上経ち、櫻井さんが帰国されてからでも二年に近い。人の動きの激しい昨今、すでにそれ以後の世代の方も多いのかもしれない。「わたしの北京」の連載スタートと、特集号の出版を機会に、根箭さんに親しくしていただいた者として、根箭さんという人が北京にいたことと、その思いの一部が活字になったことを紹介しておきたかった。

なお、根箭芳紀という人の全体像については、追悼文集『根箭さん読んでや』が、一周忌に刊行されているので、それを見ていただきたい。私家版なので、手に入りにくいかもしれないが、北京にはお持ちの方も多いだろう。


森田憲司 一九五〇年、大阪生まれ。
現在、奈良大学史学科教授。中国近世の社会・文化を専攻する。
趣味は、書物・地図をはじめとする中国にかかわるもろもろの収集。


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