中国を見る、読む、集める


不勉強

中国を見る、読む、集める  この夏の一番の収穫は、『第一遊清記』という本を手に入れたことだった。買ったのは大阪の大丸の古書即売会、値段は二五〇〇円。この本が出たのは、明治一八年一月、西暦でいうと、一八八五年になる。日清戦争の十年前だ。かわら版の時代のこのコラムに書いたことがあるが、明治時代、とくに日清戦争より前の年代の中国紀行は珍しく、現物手に入れる機会は少ない。この本も以前にコピーはしたのだが、実物を手に入れることができたので、うれしかった。

  さて、この本の著者は小室信介という人なのだが、以前に取りあげた時には、内容からジャーナリストだろうということは見当がついたのだが、それ以上はきちんと調べなかった。

  今回は思い立って、小室について、事典を引いたり、ネットで検索したりしてみた。はじめは、この本がどのくらい珍しいかを調べてみようという下心からだった。ところが、この本自体はそこそこ珍しいが、彼はかなり有名な人物で、研究もかなりあることがわかった。

  小室信介は、京都の宮津生まれの自由民権運動家、ジャーナリストで、民権派の新聞や雑誌に多数寄稿していて、小説も書いている。明治一五年に板垣退助が暴漢に襲われた時に発したとされる、有名な「板垣死ストモ自由ハ死セズ」は、じつは彼の作った言葉だという。小室は中国を訪れた翌年、明治一八年に盲腸で急死した。

  したがって、彼の著作は多く、『東洋民権家百伝』は、岩波文庫に収められている。知らないというのはこわいことで、『第一遊清記』は、彼の仕事の一部に過ぎなかったのだ。この本の出版社は、「自由燈出版局」という変わった名前だが、これも自由党関係の出版社で、小室がここの『自由燈』(じゆうのともしび)という新聞に寄稿していた現地報告をまとめたものが、この旅行記だったことも、今回調べて知った。

  別に日本近代史を研究しているわけでもないのだから、知らなくても恥ずかしいことではないと言ってしまえばそれまでだが、ちょっと事典を引けばわかることを、どうせ載っているはずはないと、手を抜いたのがいけなかった。不勉強だった。

  このことがきっかけになって、私は、この時期に北京を訪れた人々の旅行記の類に登場する在留邦人や旅行者について、調べなおしてみることにした。上海から北京へ向かう小室は、奥青輔と峯寛次郎と同行したが、奥は当時農商務省権大書記官で、後には水産局長になっている。峯については、今のところわからないでいる。

  あるいは、北京公使だった大鳥圭介が、明治二五年に長城へ出かけた時の旅行記『長城遊記』はなかなか面白い本だが、彼に同行したのは、鄭永勝、田中信政、船津辰一郎の三人だった。このうち、鄭は、代代続いた長崎通事の家の出で、父も弟も外交官になっている。当時は北京駐在の交際官試補(現在の外交官補)で、こののち天津領事などを歴任し(義和団の時には篭城している)、退官後は、袁世凱の嘱託として塩業関係に従事している。また、当時書記生だった田中は牛荘の領事などを勤めている。

  また、船津は、大鳥の書生として北京に来ていたが、後に外務省に入って、中国畑を中心に活動し、退官してからは上海で紡績方面にかかわり、終戦の時には在留邦人の帰国に尽力し、一九四六年に帰国して翌年に死去しているから、明治から終戦までの日中関係にずっと関わっていたことになる。

  明治の北京在留邦人については、他にも面白い資料があるので、また別に紹介してみたいと思っている


森田憲司 一九五〇年、大阪生まれ。
現在、奈良大学史学科教授。中国近世の社会・文化を専攻する。
趣味は、書物・地図をはじめとする中国にかかわるもろもろの収集。


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