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明治四一年のお正月

中国を見る、読む、集める 明治四一年といえば、西暦一九〇八年、清朝の年号では光緒三三年にあたる。二〇〇四年から数えると、九六年前になる。この年の元旦の北京は、「天気清麗」だった。午前九時半には、日本公使館でご真影の拝賀式、一〇時には駐屯部隊(一九〇一年の北京議定書によって、日本軍が東交民巷に駐屯していた)の皇居遥拝式がおこなわれ、一一時からは東単牌楼にあった日本人会での新年互礼会があって、来会者は百余名であったという。遥拝式の万歳の発声は、当時駐在公使の林権助だった。


続いて二日午後には、軍機大臣の慶親王以下の清国外交部高官が日本公使館を年賀に訪れている。五日には青年会の発会式、八日には商工会総会、一一日には句会の燕会と読書会の再興第一回(寺本婉雅と桑原隲蔵が講演)、一八日には日本婦人会の新年会が開かれた。


もちろんこの時代の中国で使われていた暦は旧暦だったから、二月になって春節が来ると、五日に林公使は公使館員、公使館附の青木宣純少将以下の駐在軍関係者などをともなって、西太后と光緒帝に謁見をして、新年の賀意を表している。ちなみに、この年の秋に二人ともに死んで、ラストエンペラー宣統帝が即位する。明治四一年の元旦現在での北京在留の日本人は、軍人軍属を除いて、戸数一五四、男四六九人、女二八九人、計七五八人だった。


なぜ、このようなことがわかるのかというと、この年の一月に北京在留邦人の有志が発行した雑誌『燕塵』の創刊号に、「燕都の正月」という文章が掲載されているからだ。人口については、やはり一月号に、「元旦における北京在留本邦人戸口」という記事があって、明治三五年から四一年までの数字が紹介されている。これより前にもあったのかもしれないが、『燕塵』は北京発行の日本語雑誌のはしりとして、『トコトコ』をはじめとする日本語雑誌のご先祖にあたる。この時期になると中国の各地に住む日本人の数も増えて、北京以外でも、保定、天津、上海など各地で在留邦人による雑誌が出ていたようだ。


『燕塵』の記事の内容は、在留邦人の動静、北京の政界情報、制度の解説、地方情勢などだが、川柳や俳句(燕会という句会が毎月開かれていた)、漢詩の欄もある。為替の動向が話題になっているのは今と変わらない。創刊号で面白い記事としては、東京で出した郵便がどのようにして北京に着くかの、ルートと時間の紹介がある。


「燕都の正月」には不倒庵と署名されているが、『燕塵』ではほとんどの原稿がペンネームで書かれているので、在留邦人の動静に名前が見える人のだれかだろうと推測はできても、一人一人を追跡するのにはかなり手間がかかりそうで、とても手が付けられない。それ以後の日中関係に重要な役割を果たした人や有名人もかかわっているようなので、おいおいデータを蓄えていきたいと思っている。郵便関係の記事が目立つので、日本郵便局の関係者がかなり関係していたようだ。数年前に機会があって、この雑誌の全号を複写することができたが、図版にした刊行の辞を読んでいただいてもわかるように、かなりの擬古文で読みづらいので、なかなか読めずにいる。今回、正月号用の原稿ということで思い立って、ダンボール箱に放り込みっぱなしにしていたのを引っ張り出してきて、創刊号から何号分かに目を通して、この原稿を書いた。


創刊号は、手書きを石印したものだったが、二月号からは活字印刷になった。『燕塵』は五年間続いて、通巻四九冊目の明治四五年(一九一二)の三月号で終わった。時に民国元年、清朝の運命はすでに尽きていた。


森田憲司 一九五〇年、大阪生まれ。
現在、奈良大学史学科教授。中国近世の社会・文化を専攻する。
趣味は、書物・地図をはじめとする中国にかかわるもろもろの収集。


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