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| ふーむ |
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8月26日の北京晩報、27日の北京日報に、「居庸関長城博物館」がオープンしたという記事が載っていた。北京で127箇所目の博物館だという。史蹟が博物館として公開、活用されるのはいいことなのだが、記事を読んでいて気になりだした。 私の記事の読み方が間違っているのかもしれないが、この博物館は、後で紹介する雲台のほかに、長城をはじめ、城隍廟、真武廟、玉皇廟といった屋外建築物をふくめての総合的な展示だと書かれている。あの周りにそんなものがあったのだろうか。戦前の写真を見ると、雲台を通る街道の両側には民家が連なっている。その中にあった廟を復活させたのだろうか。 中国では昔の建造物の復活は珍しいことではない。日本で言う修復なんかとは違って、昔の装いで新しい建物が建てられる。なんでも永定門も復活しつつあるらしい。だから、よくあること、と言ってしまえばそれまでなのだが、居庸関だけは私にとって特別な場所なので、どうも気にかかる。 居庸関について簡単に書いておこう。八達嶺へ向かう高速道路や、京包線の列車が峠越えのための谷に入ってしばらくすると、左手の一段高いところに、ゲートのようなものが見える(正確には見えた)。それが、居庸関雲台だ。近づくと、ゲートの入り口には、ガルダや四天王の美しい浮き彫りがあり、通路の壁面には、漢字、ウイグル文字、チベット文字、ランチャ文字、パスパ文字、西夏文字の6つの文字で、びっしりとお経が彫りこまれている。北京地区に残る数少ない元代の建築だし、このお経が西夏文字解読のきっかけの一つとなった。1345年に建てられた時には、この上に塔が立っていた。 1943年に村田治郎、藤枝晃などの先学による調査がおこなわれ、戦後になって巨冊の報告書『居庸関』が刊行された。戦前に日本が大陸でおこなった学術調査の中でも、もっともすぐれたものの1つと評価されている。 私は、1986年にはじめて居庸関に立ち寄った。雲台の上に立ったとき、ここまで来れた感慨で目が潤んだ。大げさなと言われるかもしれないが、中国へ旅行できる可能性すら想像できなかった時代に学生時代を送った私は、先人が調査した史蹟に自分が立っていることだけで感動した。藤枝さんには個人的にお世話になっただけでなく、調査の思い出話のインタビューを計画して、当時の手帳を拝見しながらお話をうかがったりしたこともあったので、居庸関は特別の場所だったのだ。
ずっと前は、雲台の下をくぐりぬける道がが八達嶺への街道だったそうだが、その頃には本街道はもう少し山側だった。そのせいか、私達の一行が雲台を見物している間に他の観光客は誰も来なかった。もちろん柵もなにもなく、勝手に見物し、勝手に雲台の上に登った。その後に行ったときも、街道を観光バスが通り過ぎることはあっても、他の観光客が来ていることはなかった。高速道路になった最近はどうなのだろう。 写真を見ていただきたい。写っているのは1986年の雲台の光景。昔の写真にあった街道沿いの民家はなく、土産物屋があるくらいだ。最近の写真を見ると、雲台に並んで城門のような建物が建てられ、城壁が周りを囲っている。近くに長城もあるらしい。もう何年かしたら、一見しただけでは、どれが昔からの建物かわからなくなるだろう。 私は、次に機会があったとしても、居庸関へ行くだろうか。 右の図版は、報告書に使われなかった写真を使って関係者に配布されたという絵葉書の袋(1959)。藤枝さんからいただいた。 森田憲司 一九五〇年、大阪生まれ。
現在、奈良大学史学科教授。 中国近世の社会・文化を専攻する。趣味は、書物・地図をはじめとする中国にかかわるもろもろの収集。 |