My Opinion 心心相印
東アジアには、共通する価値観が存在するのか?

古都・京都では、毎年夏になると「祇園祭(ぎおんまつり)」と呼ばれるお祭りが行われる。
祭りとは、民衆が神を慰め祈願する儀式である。

祇園祭最大の呼び物は、「山」と「鉾」の巡行である。
「山」と「鉾」は、合わせて32基(鉾9、山23)。山車(だし)は飾りつけられ、囃子(おはやし)にあわせ、ゆっくり静かに曳かれるが、迫力があり、雄壮かつ華麗である。
毎年、何百万もの観光客がこれを見に京都へやって来る。

「鉾」と「山」は、大きさが異なり、「鉾」の方が大きい。
「鉾」は二層造りで、屋根の上に高さ17〜25mの鉾が一本立つ。屋根までの高さは8m。足下に直径2mの車輪が4個付き、総重量は一台12トン、30〜40人で曳かれる。楼閣を思わせる「鉾」の上層には、40名(交代の人員も含める)の囃子(はやしかた)方が座り、笛やかね鉦で囃子を演奏する。その囃子にあわせ、山車の行列は、市中心の大通りを3時間余りかけて練り歩く。

「山」も「鉾」と共に巡行する。山」は一層造りで、車輪は付いていないか有っても小さく、屋根は付いているものもあればないものもある。屋根の付いていない山車の最上層には、浄瑠璃で使われるような「操り人形(動かない人形)」が飾られている。ここで、その人形を表す漢字に、「傀儡」の二文字を無造作に用いたが、どの人形たちもみな人々から敬われているので、この文字はふさわしく無いかもしれない。

「鉾」と「山」の装飾には、日本や中国に古くから伝わる故事来歴がある。それらは、まず山車の名前に見て取れる。例えば、函谷鉾(かんこくぼこ)。この名前は、孟嘗君の故事※1から取られている。鶏鉾(にわとりぼこ)※2は、中国古代の聖人ぎょう堯(訳者注:伝説上の帝王の名前)の時代、天下太平で鶏たちは群れを成し、安心して巣作りに励んだという故事に基づく。

「山」は更に中国故事と密接な関係を持つ。だし山車の名前を一見すれば、すぐに分かるので、ここでは名称だけを列挙する。蟷螂山(とうろうやま)、孟宗山(もうそうやま)※3、伯牙山(はくがやま)※4、郭巨山(かっきょやま)※5、白楽天山(はくらくてんやま)※6、鯉山(こいやま)※7など。

さて蟷螂山に注目してみると、この屋根には、カマキリのからくりが取り付けてあり、山車が進むにつれ、その前足が上下に動く。その姿はなんとも可愛らしい。
古代の故事に、カマキリが斉の国王荘に大変敬われたとある。だが今の世で、果たして誰が一体カマキリを尊敬するだろうか?「とうろうのおの蟷螂の斧」※8は、すでにマイナス・イメージのことばである。とはいえ祇園祭りでは、カマキリはなお神として、或いは神の能力をもった使者として崇められている。
このカマキリは、一説によるとある勇敢な武士を頌えたもので、戦には負けたが、彼と縁のある町民たちが、わざわざカマキリのからくりを使い、彼を追慕したと云われる※9

ここに、少なからぬ京都民衆の自嘲精神を見るような気がする。さらに、このような精神は、中国の文人たちの自嘲にも相通ずるように思われる。
日本文化の中の中国文化とは、実のところそんなに単純ではない。

鉾」と「山」には、釘が使われていない。毎年、縄で組み立てられる。祭りが終われば、解体され保存される。これらの仕事はみな町民たちの負担である。町民たちの毎年の出費は相当な額になるにちがいない。

祇園祭の歴史は長く、西暦八六九年(唐代末期)、疫病が流行ったため、人々は神に祈願し御加護を受けようと始まったもので、西暦千五百年(明の孝宗時代)に至り、現在のような形式が整ったといわれる。京都町衆の自発的な自己負担で始まったこの祭りは、すでに五百年以上の長い間、維持され続けている。

祇園祭の中に見られる例を通して、私は、東アジアには、共通する知恵や価値観が存在すると考える。如何なものだろうか?





訳者注(出典記載のないものは、ホームページ『京都新聞』、『八坂神社』の祇園祭を参考、引用させて頂きました。)

※1 中国戦国時代の四君の一人。斉の国の大臣として、数千人の食客を養っていたことで有名。(藤堂明保編『学研漢和大字典』)◎孟嘗君の故事。戦国時代、斉の孟嘗君は秦の昭王に招かれ、宰相に重用された。しかし讒言によって咸陽を脱出し、函谷関まで逃げたが、関の門は鶏が鳴かねば開かない。配下が鶏の鳴き声をまねたところ、あたりの鶏が和して刻をつくったので見事通り抜けたという。

※2 中国の「諫鼓(かんこ)」の史話より。堯(ぎょう)の時代は天下がよく治まっていたため,訴訟用の太鼓(諫鼓)も使われることがなくなり,苔が生え鶏が巣を作ったという故事。

※3 中国・24孝の一人、孟宗は、母親が病気になったため、好物のたけのこを求めて竹林を歩きまわったが、寒の季節で1本もない。疲れて座り込んでしまったとき、たけのこが出、母親は元気を回復した話からきている。町名が笋(たかんな=たけのこの意味)町というのもこれに由来する。

※4 中国周時代、琴の名手伯牙は親友の鐘子期が死んだとき、自分の琴を真に聞いてくれる人がなくなったと嘆き、琴の弦を断ったという説(呂氏春秋)と、晋時代に戴安道という琴の名手が武陵王の招きを受けた時、一介の楽人として招かれるのを潔しとせずに琴を割った故事によるという説(晋記)があり、このことから「琴破山」ともいわれる。御神体の人形は手に斧を持ち、琴を今にも打ち破ろうと見下している。

※5 別名,釜掘り山(かまほりやま)。貧しくて母と子を養うことができない郭巨が子を山で土に埋めて捨てようとすると,土の中から黄金の斧が現れ,その後,母に孝養を尽くしたという中国の史話,二十四孝の郭巨釜堀りの故事に由来する。

※6 2体の人形の唐冠を付けたほうが白楽天(772-846)、帽子(もうす)をかむった僧形が道林禅師の像。長恨歌などの名詩で有名な中国・唐の詩人、白楽天が道林禅師に仏法の大意を問いかけているシーンを表している。

※7 登龍門の故事がテーマで,中国の黄河中流にある龍門の滝を上る鯉の姿を表している。この滝を上ることができる鯉は龍に姿を変えると言われることから,登龍門は,困難を通り抜ければ立身出世の道が開かれる関門を意味し,鯉山では立身出世のお守りが授与される。

※8 カマキリが、前脚(斧)を振り立てて、むこうみずに敵に立ち向かうこと。弱い者が自分の力をわきまえずに手向かいすることのたとえ。カマキリが斉の「荘公」が乗る車に立ち向かったという「韓詩外伝」に見える故事から。(藤堂明保編『学研漢和大字典』)

※9 応仁の乱以前に起源をもつ山で「蟷螂の斧を以て隆車の隊を禦がんと欲す」という中国の故事に取材した山で、「かまきり山」ともいわれる。南北時代足利義詮と戦って死んだ当町在住の四条隆資卿の武勇ぶりが蟷螂の生態に似ていることから、渡来人で当町居住の陳大年が彼の死後二十五年目の永和二年(一三七六)四条家の御所車に蟷螂を乗せて巡行したのが始まりといわれる。その後、再三の戦火で安政四年(一八五七)を最後に巡行しなくなったが、昭和五十六年に再興された。特徴として、かまきりと御所車の車輪が動くなど、山鉾の中で唯一からくりがほどこされている。 

竹内実 京都大学名誉教授
竹内 実
京都大学名誉教授


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